下山ダニーロの気まぐれ日記

95年生まれサラリーマンの日記です。

忙しいという名の怠惰

 僕は現在サラリーマンですが、最近働いている中で「忙しい状態にあぐらをかいている」場面があることに気づきました。具体的には、忙しい際に目の前のにずらりと並んだタスクを処理することに精一杯になっている状態をいいます。一見怠惰とは程遠く見えますが、この状態の中に怠惰はあります。

 理由は一つで、アイデアの創出や工夫を凝らすことを放棄していることです。嚙み砕いて話すと、与えられたタスクで時間を埋め、アイデアや工夫に充てる時間を無くし、思考停止(脳が楽を)している状態をいいます。そして、恥ずかしながら僕自身もしばしばこの状態に甘えてしまうことがあります。

 確かに目の前にすべき仕事が無いと不安な気持ちになることもありますが、本来はその空いた時間で新たなアイデアの創出や現在行っている仕事の手法の見直し等に思考を張り巡らせるべき時間といえます。

 この手が空いた時間の有効活用を行わず、手が空かないよう仕事を詰め込み続けた延長戦に、ワーカホリックないしはその原因の一部があるように思います。

 確かに、新たなアイデアの創出や工夫を発見することは成果が出ない可能性もあり、また他人からも受け入れられにくいのでハードルがありますが、これを行わないと能動的にやりがいをもって働くことが難しいと考えます。

 そして、忙しい生活の中で思考を止めないためには、思考を行うことの優先順位を限りなく高めておくことが重要だと考えます。例えば、

A:時間の余裕がなく重要な仕事

B:時間の余裕があり重要な仕事

C:時間の余裕がなく重要でない仕事

D:時間の余裕があり重要でない仕事

の4種の仕事に分類したとして、僕の理想としては思考することをBと同様に扱いたいと考えます。最低でも、B以下でCは超えている状態です。Cと同等以下の状態になっていると危険で、思考には時間的な概念が無いので実質Dと同じ扱いになってしまいます。Dと同じ扱いになると、受動的に働かざるを得なくなり、やりがいを感じることも減っていきます。

 さらに言ってしまうと、思考をせずに予定を詰め込むぐらいなら、向上心ややる気を持たず、無駄な労働をしないことに思考を張り巡らせている方が、個人としての幸福度は大きいと考えます。

 まとめると「目の前の忙しさにかまけて思考停止せず、思考の優先順位を高め、良い未来を手に入れるために考え続ける」というマインドで働くことが大切なのではと感じました。

 

 

「期待しない」ことで得られる幸せ

 僕は全くもって平凡な人間ですが、唯一誇れる才能が、タイトルにもある「期待しない」ことです。現在ある程度幸せに生活できていることも、過度な期待をしなかったことよる要因が大きいと思います。

 僕の生い立ちを話しても面白くないので、一つ例を出します。互いに25万円の収入を貰えるケースで「30万円貰える期待をしている人」と「20万円貰える期待をしている人」とでは、25万円を貰った際の感情は正反対になります。おそらく30万円を期待した人はガッカリし、20万円を期待した人は幸せなはずです。日常でこのどちらに傾く回数が多いかで、幸せの度合いが決まってくると僕は考えます。

 ここまでは当たり前の話ですが、次のケースではどうでしょうか。「1億円の収入を貰えると期待して8,000万円貰った人」と「20万円の収入を貰えると期待して25万円貰った人」のケースです。僕は25万円の収入を貰った人の方が幸せだと考えます。一つの根拠として、プロスポーツ選手の移籍があります。

 スポーツ界では、十億単位の収入を毎年貰っているにも関わらず、レベルの落ちる環境であってもさらなる収入UPを求めて移籍する場面が、しばしば見られます。十億単位の収入を貰っていても収入に幸せを感じていない、つまり期待の度合いがとてつもなく高いということになります。

 ではなぜスポーツ選手に期待の度合いが高い人が発生するのでしょうか。それは、一部のスポーツ選手は期待を成長の肥やしにしているためです。前述の通り、人は期待を達成できないとガッカリします。その感情を生み出さないために、彼らは期待をやめるのではなく、期待に応えるべく努力をするのです。僕はサッカーをやっていることもあり、この思考に一定の理解とリスペクトがあります。しかしながら、この思考によって幸せを獲得できるのは、プロ等の一握りといえる所まで上り詰めた、ごく僅かの人に限られます。(経営者やホストでも同じことが言えます)※余談ですが、このガッカリを挫折と呼びます。

 一握りに入れなかった多数の人は、この思考を止めない限り期待を超えられず、幾度となくガッカリすることになります。なのでどこかで期待をやめ、折り合いをつけることが必要なのです。

 そしてよく勘違いされているのが、スポーツ選手には過度な期待をせずとも小さな成功をコツコツと積み重ね、プロや一流になった選手も数多くいるということです。大きな挫折から努力を積み重ねる過程は美しいことからクローズアップされがちですが、期待を肥やしにせずとも人は成長できると僕は思います。

 スポーツ選手のような極端な例でなくとも、僕たちは知らず知らずのうちに、期待の度合いが上がっていってしまいます。なので、幸せに生きるためには、日々の振り返りをしながら、当たり前に享受しているものへのありがたみを感じ、過度な期待を削ぎ落とし、小さな期待を数多く超えることが大事だと考えます。油断せず幸せな人生を送りたいですね。ではまた。

リアクション「ああそうですか」について

 僕が信頼できると感じる人に「ああそうですか」という受け答えを用いる人が少なくないことを最近感じました。この受け答えは、関心の無い内容や重要でない会話を目上の人としている際に用い、変にポジティブな反応をせず等身大で会話するというニュアンスが込められています。

 目上の人に対して等身大で反応するということはとても大事で、一般的には、目上の人との会話での反応としては、程度の違いはあれど関心が無い話題でも関心を持っている態度を示し「そうなんですね!」といったリアクションを取ると思います。しかしながら「ああそうですか」を用いた場合には話題に関心を持っている態度には見えません。つまり「ああそうですか」を用いる人が関心のあるリアクションを取った場合は、下心の無いものであり、信頼できます。

 この「ああそうですか」は仕事や営業の場面には向かないように思われるかもしれませんが、実は向いていると私は考えます。例えば、クライアントがいち早く事実を集め結論に辿り着きたい場合等では、毎回良いリアクションをされて話を膨らまされていては、中々結論に辿り着けず相手のリアクションに対し信頼ができなくなります。したがって、こういった場合は必要な内容にだけ良いリアクションをしてくれる相手が、より信頼されます。

 僕もつい相手に良い印象を持たれようと良いリアクションやポジティブな態度を取ってしまうことがあるため「ああそうですか」のように不要な場面でのポジティブな態度は避け、信用しやすい会話のできる人間を目指そうと思います。ではまた。

老いとの向き合い方 ~27歳時点~

 私事ですが、僕は現在社会人サッカーのチームに所属しています。毎週末活動に参加していて、平日も最低1日は走り込み等するようにし、身体の維持に努めています。しかしながら、26歳の後半あたりから少しずつ身体のキレが落ちていることを実感し始めました。

 26歳で衰えを感じるのは少々早いように思われるかもしれませんが、プロサッカー選手でもほとんどの人が30代前半で衰え始めるので、週2~3回しか運動していない僕が26歳で衰えを感じるのは仕方がないことです。

 こうした時まず思い浮かぶのは、サッカーの代わりとなる新たな趣味を見つけることです。サッカーを辞め新たな趣味を見つけることができれば、今まで通り楽しい趣味の時間を過ごすことができるかもしれません。生涯できる趣味であればより一層です。

 しかし僕は、それでは老いから逃げているように感じてならないのです。老いを感じたら手放して次へ行くという選択だけをしていると、いずれ必ず来る、老いの終着点である死に直面した際に、とてつもなく絶望してしまうのではないかと思うのです。

 老いを楽しむ経験を多く積んでいれば、余命宣告をされても、絶望よりも限られた時間と能力の中で残りの人生を楽しむ方法を模索する思考でいられるのではないかと考えます。

 なので僕は、サッカーをしていることで初めて感じることができた老いを、しばらく楽しんでみようと思います。身体能力に頼ったプレーを減らしてパスを増やすなどし、その時点の身体能力でできる最良のプレースタイルを模索していこうと思います。

 これは贅沢なことで、サッカーを生業としていたら楽しむ余裕など生まれなかっただろうと思います。(一生お金に困らないレベルの成功を収めていれば話は別ですが)

 そして、老いを楽しみつつ、次の趣味は見つけようと思います。サッカーより楽しい趣味を見つけた時、サッカーとは一区切りつけます。老いたから辞めるのではなく、より楽しいものを見つけたから辞めるのです。

 趣味にしたいことは多くあり、ぱっと思いつくだけでもボウリング、ダーツ、絵、楽器等が思い浮かびます。楽しみです。全部できなくても良いので、時間の許す限りは創意工夫しながら楽しんでいきたいと思います。

 数年後この価値観がどう変化しているかはわかりませんが、27歳時点の僕の老いに対する価値観は以上です。ではまた。

つまらない人間

 僕は他人といる時に、しばしばつまらないことしか言えなくなってしまいます。今までの交友関係や周囲からの評価を基にすれば、一定のコミュニケーション能力やユーモアは持ち合わせていると考えられるものの、友達とお酒を飲んでいる時や遊んでいる時など、比較的大人数でいる時にそれはよく起きます。(特にお酒を飲むと起きやすい)
 理由を考えると、自分を良く(大きく)見せようとする虚栄心によるものが挙げられます。これは飲み会や遊びだけでなく仕事の時にもしばしば表れ、僕の短所の中でも致命的なものになりかねないと考えます。当然ですが、虚栄は親しい人や目上の人にほどすぐに見抜かれ、プラスに働くことは皆無に等しいです。そもそも、センスやユーモアだけで楽しい場をつくるには相当の場数が必要であり、そういった人こそセンスの中に自虐を厭わないスタンスのように思います。
 虚栄心が生まれてしまう原因としては、褒められたいという感情と嘲笑されたくないという感情が潜在的にあるためだと思われます。特に後者の感情が大きく、どうしても嫌な感情を避けようとして動いてしまい、結果的により大きな恥をかくことになります。
 考えられる対策としては、あらゆる嘲笑を想定しておくことが挙げられます。しかしこれでは、想定外の嘲笑をされた際の抜本的な対策になっていない上に、億劫になり行動を起こしにくくなるという欠点があります。(物事のリスクを把握するという観点では良いですが)
 そのため今回考えた対策が、この葛藤を文章に書き起こし、自分への戒めとすることです。文章にすることで、抽象的に思ったこと感じたことを具体的にすることができ、より自分自身に刺さるのではないかと考えています。また、この文章に起こすという行為は、戒めとしての機能だけでなく、その年代や時々の感情・葛藤を残しておくことにもなるので、継続的に行っていきたいです。
 そして何より、またしょうもない虚栄をしてしまったと、帰り道に一人で落ち込む回数が減ることを祈ります。