下山ダニーロの気まぐれ日記

95年生まれサラリーマンの日記です。

死との向き合い方(20代後半)

 最近、高校生ぐらいの頃から約10年会えていなかった祖父が亡くなりました。会わなかった期間は認知症が進んだため施設に入っており、施設に入って間もなく僕のこともわからなくななり、祖父にショックを与えないためにも会わない方針となりました。なので、祖父は約10年認知症だったにも関わらず、それに気づかぬまま息を引き取りました。

 祖母から聞いた話ですが、祖父は認知症が進行してからも楽しそうに生きていたと聞いています。もちろん祖母や施設の方をはじめとした周囲の方は大変なことも多々あったかとは思いますが、結果的に皆とても良い雰囲気で祖父を送り出すことができました。もしも、祖父が認知症に気づき、自分の記憶が無くなっていくことに絶望したまま息を引き取っていたら、明るく送り出すことはできなかったと思います。10年間知らぬが仏を続けたことで、全員が幸せな形で祖父を送り出すことができました。

 このことから、いずれ来る死に対し、僕が今から何ができるかと考えた時に「死ぬことは死ぬ間際になってから考える」ことを意識しようと決めました。二点理由があります。一点目は、今からあれこれ考えて対策を立てても、具体的な状況がわからないのでほとんど役に立たないと考えるためです。二点目は、いずれ身体や思考の自由が効かなくなる頃には、既に一定の思考能力の低下や覚悟があると考え、必要以上に絶望しないのではと考えるためです。

 加えて、二点目について僕はすでに疑似体験しています。それは恥ずかしながらお酒で潰れてしまった場面です。思考も体も思うようにいかない感覚や、自分の意志に反して意識を失ってしまう(寝てしまう)感覚は、生きている中で最も死に近い経験なのではないかと考えています。もし死ぬ際もこれに近い感覚なのであれば、既に真っ当な思考はできていないので、恐怖や絶望などはほとんど無いと考えます。

 したがって、今の僕はいずれ来る死に対し、受け入れながらも目を背け、楽しく生きていこうと思います。それが近づいてきてから考え始めても遅くはないと思うので。

ではまた。

諦めない為に諦める

 こんにちは。今回は、生きていく上で1番と言っても過言ではないほど重要だと思っている考え方について纏めます。

 タイトルを見ると、一見矛盾しているように見えると思います。しかしながら、内容を突き詰めていくと、とても真っ当な考え方なのです。

 まず、目的としては何か一つの夢や目標を達成することにあります。その為には、諦めずに頑張る事が何より重要です。諦めたり継続ができなかったりする場合、余程設定が低くない限りほとんどの夢や目標は叶いません。

 では次にどうやって叶えていくかですが、その手段こそが「諦める」ことなのです。例えば、家族との時間を何より大切にするのであれば、仕事を大量にこなすことを諦めるしかありません。仕事だけでなく、趣味や娯楽についてもある程度の諦めが必要です。

 こうして夢や目標以外の要素を少しずつ、そしてより多く削ることで、一つのことを諦めないことが可能になります。もちろん特別な才能や環境がある場合は例外ですが、原則としては上記が当てはまると思います。

 そして、諦めるためには「何を諦めたくないか」を明確に理解していなければならないので、そこには最大限のリソースを割くべきだと思います。かく言う僕も、現在進行形で諦めたくないことの取捨選択をしている最中です。諦めたくない確固たる意志ができたら、あとは可能な範囲でで他の事を諦めていきます。ではまた。

エスカレーターから学ぶ、初期ルール整備の大切さ

 今回は、日常でエスカレーターを利用する中で、初期ルール整備が十分にされなかったために、現状で起きている課題について考察します。

 エスカレーターにおいて初期ルール整備不足といえる点は、階段としても利用ができる点です。階段の法規制として、建築基準法では4m毎に75cm以上の「踊り場」と呼ばれる平面のスペースを設けなければなりません。踊り場は、転落等があった際に最下部まで落ちるのを防ぐ役割として機能しています。しかしながら、エスカレーターは法規上階段とはみなされていないため、踊り場が不要になります。上記からわかる通り、現状、エスカレーターは階段として利用されているにも関わらず、階段としての法令が適用されていないのです。これは、エスカレーターが普及していく段階での初期ルールの整備不足としか言いようがありません。

 最近では、歩行禁止のアナウンスや掲示によってエスカレーターの歩行を止めるよう促しているケースをよく見かけます。しかしながら、階段として利用することによってスピーディーに階を移動ということを知ってしまった以上、止めさせる術としてアナウンスや掲示物程度では不可能だと思います。極端な例をあげると、スマホガラケーに戻すよう促されても、ほぼ全員の人が聞かないのと同じことです。

 解決方法としては、法規制を行った上で、エスカレーターがある場所に監視員を配備して取り締まる以外に無いと考えます。これが現実的ではないのは明確ですが、エスカレーターの歩行がスタンダードになってしまった以上、それを止めさせる(不便な)方向へ変えるには、利用者にデメリットしかなく、相当の費用と労力が必要になります。

 したがって、何か新しい設備やサービスを導入する際は、考えうる法整備をきちんと行っておく必要があると考えます。個人の日常単位や仕事中の些細な場面でもこれが当てはまるケースは多々あるので、エスカレーターを反面教師に生きていきます。また、今後エスカレーターの歩行規制がどのように進んでいくのかも注目していきたいです。ではまた。

 

散歩と資本主義と幸せ

 昨日、明るいうちに仕事が終わったので帰ろうかと思うと、外はとても心地の良い気温でした。僕は無性に歩きたくなり、日暮里~上野間を散歩しました。

 ルートとしては日暮里の南口改札を出て西に進み、谷中霊園→上野桜木エリア→上野公園→上野駅の順に歩きました。まず駅を出てすぐの谷中霊園に入った瞬間、異世界に飛んだような錯覚を覚えました。ほとんど人がいない中で、偉人のお墓が並ぶ独特の雰囲気と、緑豊かな自然に癒されながら歩く時間はとても心地良いです。

 谷中霊園を抜けると、上野桜木エリアに出ます。ここでは、一度都会に戻りつつもどこか懐かしい雰囲気を感じることができます。(セブンイレブンさえ無ければ完璧...)

 上野桜木エリアを抜けると、上野公園に入ります。上野公園に入る前の道では、地下に京成線が走っているので時折音と振動があります。公園に入ると、どこも散歩道として整備されておりカフェ等も充実していて、谷中霊園とは違った心地よさがあります。上野動物園から動物たちの声が聞こえるところも個人的には好きです。

 上野公園を抜けると一気に上野駅前に出るので、今度は逆に異世界から現実に戻ったような感覚を覚えます。どのくらい時間が経っていたのかはわかりませんが、上野駅に着いた時にはあたりは真っ暗になっていました。時間や暗さを感じないくらいに心地よい時間を過ごすことができました。

 ここまでのお散歩日記からわかる通り、僕はこの心地よい散歩の中で快感や幸福を感じていたわけですが、心地よさだけでなく「無料」という点でも快感や幸福を感じていました。なぜかというと、本来この資本主義社会では、快感を得る、また不快感を避けるためにはお金を支払わなければいけないように出来ているためです。家に住むのもご飯を食べるのも、生きていくうえで行うことはすべて、快感や幸福を得る、また不快感を避けることが目的で行われており、原則お金が発生します。そしてそのお金を支払う(快感を手に入れる)ためには、労働で不快感を覚える必要があるのです。

 これを考えながら散歩をして思ったことは「労働による不快感が稼いだお金によって得られる快感と等しい、もしくは下回っているようであれば、いくらお金を稼いでも意味がないのではないか」ということです。つまり、資本主義社会で幸せに暮らせるか否かは「労働をはじめとした不快感による支出」と「不快感以外の時間で得られる快感による売上」の差で生じる「利益」によって決まるということです。ここで大事なのは、収入は必ずしも売上にならないということです。お金の使い方次第で得られる快感は全く異なるので、快感を得られて(不快感を避けられて)初めて売上となるのです。つまり、いくらお金を稼いでいたとしても、労働環境やお金の使い方次第で幸せとは程遠い人生を歩むことになります。

 したがって、無料で快感を得られる散歩は、実はとんでもなく凄いことなのです。もしこの文章を読んで散歩したくなったら、GW期間中等、是非暑くなる前に行ってみてください。快感という軸で考えると、今が一番お得に散歩できます。笑

ではまた。

余計な事を言わないために

 こんにちは。下山ダニーロです。突然ですが、僕の短所の一つとして、余計な事を言ってしまう点があります。25歳を超えたあたりから少しずつ改善されている気はしますが、依然として短所であり後悔することが多々あります。今回は、今後の改善のためにもなぜ余計なことを言ってしまうのか考えてみたいと思います。

 考えるにあたりまず明確にしたいのが「なぜ言ってしまうのか」です。僕が思うに余計な事を言ってっしまう人は二種類に分類できると考えます。一種類目は「空気を読めない(読まない)」タイプです。このタイプの人は、本人が余計な事を言っていることに気づいていないことが多いです。余計な事なのでマイナスに作用することが多いですが、時に同調圧力に屈しないプラスな方向に作用することもあります。

 二種類目は「役に立つために何か発言しなければ」タイプです。僕はこちらに該当するのですが、このタイプの人は、余計なことを言ってしまったことに気づくことが多いです。しかし、前者のように時にプラスに作用するといった例外は無く、100%余計でメリットはありません。したがって、今回はこちらについて掘り下げていきます。

 この「何か発言しなければ」による余計な発言が発生する場面は主に「対話でのアイスブレイク」と「大人数の打合せで一言だけ必要な時」です。どちらのケースも、何か話さなければという義務感が生じ、つい余計な事を言ってしまいます。

 そこで、何とか解決すべく長い時間悩んで見つけた対策としては現状ただ一つで「何を言いたいか理解した上で話す」ことです。何を言いたいかが明確でないから余計な発言になってしまうわけで、言いたい・伝えたいことが明確になっていればそこに余計な発言は生まれないと考えました。

 具体的には「準備に時間をかける」及び「相手にどう思われているかを過度に意識しない」の二点を行います。準備については、とにかく自分の話力を信用せずに、時間と労力をかけて行うことが必要だと考えます。慣れてきたら、徐々に準備の時間と労力を減らしていこうと考えます。

 相手にどう思われているかを過度に意識しない点については、加減が難しいですが、勝手にこちらが話さなければと思い込み自滅していることもあるので、理解度や言いたいことの定まっていない状況では多少空気が悪くなっても発言せず、頭の中が整理できた段階で発言することが必要だと考えます。

 以上の通り今回は余計なことを言わないための対策を考えてみました。上記にまとめただけで抜本的な解決策になるかは今後僕自身が試して検証していきたいと思います。一定の傾向が表れた際に、結果を記したいと思います。ではまた。

 

高圧的な人との関わり方

 資格の課題に追われており少々期間が空いてしましましたが再開します。

 今回は、高圧的な人との関わり方について考えていきます。生きていく上で、高圧的な人と関わる機会は必ずと言っていい程あると思います。特に社会人の場合、上司や取引先等、継続した関わりを強いられるケースが多いと思います。

 まず、高圧的な人にみられる最も大きな特徴として挙げられるのが「物事が思い通りにいかない場合に感じるストレスが、一般的な人と比べて著しく大きい」ということです。身近な例だと、運転中に気性が荒くなったりクラクションを多用する人が概ねこれに当てはまります。またこの特徴にはもう一つの側面があります。それは「物事を思い通りに運ぶことへの執念が人一倍深く、思い通りになった際の喜びも著しく大きい」ということです。これは言い換えれば物事を必ず達成しようという「実行力」でもあり、プラスに作用する場合も多くあります。したがって、経営者や職場の上司には高圧的な人が少なくないのです。

 次に、この特徴を踏まえどう接するかを考えます。真っ先に思いつくのは「高圧的な人のやり方に忠実に従い、かつ一定の成果を上げ続ける」ことです。前述の通り、高圧的な人は物事が思い通りに進むと人一倍の喜びを得るので、最適なやり方かどうかは置いといても忠実に従うことで、良好な人間関係を築きやすくなります。ただしこのやり方だと、高圧的な人と接するストレスが大きいので、再現性が低いといえます。また、周囲からも媚びへつらっている印象を持たれる懸念があります。

 そこで今回、僕が実際に試して一定の効果を得られた手法が「高圧的な態度を取られても気づかないふりをして対等に話し合い、もしこちらが正しい場合には、こちらの主張へ誘導して相手に気づかせ発言させる、できなければ相手の逃げ道を用意する。」というものです。

 まずは最初の「気づかないふりをする」点です。一見ハードルが高そうに見えますが、コンプライアンスが整備された昨今で、暴力や極端な人格否定はそうそう行われないと思いますので、そこまで難しくはないはずです。(あれば今すぐ環境を変えるべきです)

 次に「対等に話し合う」という点です。高圧的な人は、多少間違った主張も持ち前の圧力で押し通してきた経験の持ち主なので、主張の粗さや矛盾が生じていることが少なくありません。なので理論武装をしっかりとし、自信を持って発言し話し合うことが必要です。(もちろん概ね正しいことを言っている場合は、多少の違和感があってもそのまま聞き入れた方が良いケースもあります。)

 次が最も大事で「自分の主張へ誘導して相手に気づかせ発言させる」という点です。これは高圧的な人の実行力を逆手に取った方法で、成功すれば理想的です。事前の根回しをはじめとした、議論の場で自分の主張に辿り着くヒントとなる情報を小出しにすることで、高圧的な人に自分の主張を思いついてもらい、自分の思う方向にもっていくという手法です。表面的に手柄は譲っていますが、主張の根拠を深くまで理解しているのはあくまでこちらなので、僕の経験上最終的に手柄は戻ってきます。

 最後に、もし誘導をしても自分の意見に流れてくれない場合は、自分の意見を主張し正しい方向に導くしかないですが、その際は必ず「相手の逃げ道を用意」してください。逃げ道を作らないと、思い通りにいかず人一倍ストレスを感じてしまいますので、フリだけでも相手の主張に理解と敬意を示してください。面倒ですが、高圧的な人は一度嫌った人に対しての妨害行為の実行力も凄いので、これを怠ると大変な事になります。

 今回は、高圧的な人との関わり方についてまとめてみました。僕は今のところはこの手法でうまくいっていますが、もっともっと場数を踏みアップデートしていく必要があると思うので、引き続き頑張ります。ではまた。

「苦手なもの」を無くさない

 子供の頃は、苦手な食べ物や科目等嫌いなものが多々あったと思います。もう少し成長すると、苦手な人も出てきたのではと思います。

 そこから大人になるにつれ、好き嫌いで物事を判断できる場面が少なくなり、苦手なものとも向き合わなければいけなくなります。そうしていくうちに、徐々に適応し、苦手でなくなっていくことも少なくないと思います。

 一見すると良いことのように思えますが、僕は良いことだけで無いと考えます。苦手なことこそ個性であり、その人の面白さだと思うからです。

 全ての苦手を克服し、多少得意なことがある状態を多角形状のグラフにすると、整った形に少しムラがある程度に見えると思います。

 対して、幾つか苦手なことがあり、多少得意なことがある状態を同じようにグラフ化すると、欠点が浮き彫りになりますが、得意なことも際立って見えます。つまり、苦手なもの(短所)のある方が長所を目立たせることができるのです。

 これは仕事の場面でも当てはまります。得意なことと苦手なことがはっきりしている方が、自分という人間を理解してもらいやすくなり、得意な仕事を頼まれやすくなります(もちろん苦手なことの量と度合いには依存しますが)。

 さらに苦手なものが共通していたりする場合、得意なものが共通しているよりも強い仲間意識を持つことができます(食の趣味が合うか否かも、好きな食べ物より苦手な食べ物への紐付きが強いと思います)。

 もちろん、社会の中で生きていく上では苦手なものは少ない方が良いです。ただ「苦手なものを0にしよう」というマインドやそうなっている状態が良いかというと、そうではないということです。

 なので僕は、どうしても苦手なものは一つの個性として受け入れ、大切にしようと思います。